松旭斎滉洋(伊藤欽一・晃洋)の通夜、葬儀へ起し下さり、各界の方々より御挨拶メール、
弔電、献花を賜り感謝申し上げます。
京都西本願寺より「釋滉洋」(しゃくこうよう)の法名を賜りました。
京都市上京区の美術商の家業に育まれ、
令和元年十月三日、八十八歳米寿の生涯を静かに閉じました。
家族葬にて喪主、伊藤まゆみに代わり遺族代表として御挨拶させていただきました。
弔辞には、日本奇術協会関西支部、深井洋正様より宝塚歌劇バウホールの思い出深い御言葉を賜りました。
関西演芸協会会長、桂福團治様、
日本奇術協会参与、瀬島順一郎様、
生前より多大なご懇親を賜り、御参集賜りました方々を文末へ御紹介させていただきました。
通夜では、滉洋マジックスクールの生徒〜17年から22年間経歴の皆様5名と、キタノ大地様にタバコを披露していただき想い出を忍びました。
滉洋の十八番芸、タバコ、ピラミッドは、数年間の口伝により、キタノ大地へ継承されました。
葬儀は、滝が流れ生花に包まれた祭壇に晩年に撮影した遺影に、宝塚歌劇バウホールの想い出スクリーンに滉洋の好きな曲、「タバコが目に染みる・恋は水色・オリーブの首飾り」エレクトーン演奏演出を想い出に忍びました。
滉洋は芸事好きで19歳頃より舞踊の師匠に奉公して、1948年に三井晃天坊先生に出会い奇術材料販売を手伝い、祇園会館の御縁で晃天坊先生に奨められ1952年に松旭斎天洋先生の門下となりました。
先生方の「晃」「洋」伊藤晃洋となり、その後に松旭斎天洋先生より亭号を賜り、松旭斎晃洋とお聞きしております。
芸名のお話しを質問され、伊藤晃洋、松旭斎晃洋、松旭斎滉洋と聞かれます。
脚本家・漫才作家の香川登志緒(かがわ としお)先生の奨めもあり、芸名の晃洋から滉洋への経緯をお聞きしております。
芸名の晃洋から滉洋への改名は、ビラ、チラシ、台本等、数千枚の資料より、東宝名人会、大須演芸場、千日劇場では、晃洋とありますので、1966年昭和41年以降の道頓堀角座の頃から、滉洋へ「さんずい」に変わりました。
松旭斎晃洋とマジック・カーペット
(晃洋・まゆみ・たけし)
想い出をめくり、松旭斎たけし〜楽屋
兄弟子のたけしは、中学生の頃から実兄、故・二代目桂枝雀との漫才コンビで素人ながら名を知られるようになり、兄枝雀は人間国宝の桂米朝師匠に入門、弟前田武司は松旭斎晃洋へ入門し十年の苦労を重ねて、国立演芸場(こけらおとし)1979年に朝日放送テレビ中継の桂枝雀独演会の楽屋を訪ねゲスト出演した松旭斎たけし、前田兄弟一度限りの夢蘇ります。
通夜御参列
ジョニー広瀬様
安田悠二様
キタノ大地様
サミー河合様
葬儀御参列
関西演芸協会
桂福團治様(会長)
公益社団法人日本奇術協会
瀬島順一郎様(参与)
深井洋正様(関西支部長)
深井キミカ様
亜空亜SHIN様
真田豊実様
献花
関西演芸協会様
桂福團治様(会長)
公益社団法人日本奇術協会様
島田晴夫様(名誉会員)
花島皆子様(会長)
KYOKO様(ドルフィンマジックカンパニー)
瀬島順一郎様(中部奇術連合会会長)
弔電
公益社団法人上方落語協会会長
笑福亭仁智様
有限会社セオマジック
ゼンジー世村様